三原の歴史

『小早川隆景』ってどんな人?【簡単イラスト解説】~三原城主で毛利家に尽くした智将~

三原市民にとっては、三原城を築城した人としてお馴染みの小早川隆景

全国的には、誰それ?小早川?関ケ原で裏切った人?って感じの知名度でしょうか。
(注)関ヶ原で裏切ったのは別の人(小早川秀秋)です。

「毛利元就の三男坊」とか「三本の矢の一人」と言えば、広島県民なら、へぇ~!と言ってくれるでしょう。

しかし、全国的にみると「そもそも毛利元就って誰だよ!」って人も多いのでは?

(大河ドラマ「毛利元就」が放送されたのは、もはや四半世紀前の1997年)

とまぁ、知名度は低い小早川隆景だけど実はとってもすごい人だったんです!

隆景が亡くなったとき、秀吉を天下統一に導いた天才軍師・黒田官兵衛

これで日本に賢人はいなくなった

と言われるほどに・・・

ということで、三原の偉人「小早川隆景」を広く知っていただくべく、

(てか、三原市民も三原城つくった以外、何した人かよく知らない)

ちょっくら、どんな人か紹介してみま~す!

※歴史に全然詳しくない管理人が調べてるので、間違っているとこもあるかもしれません。そのつもりでご覧ください。

いつの時代の人?

室町時代の終盤から安土桃山時代(1533~1597年)、いわゆる戦国時代に生きた武将です。

織田信長豊臣秀吉同世代で、信長の1つ年上です。

関ケ原の戦い3年前に、65歳で亡くなっています。

どこらへんの人?

中国地方南部(山陽地方)を中心に活躍し、一時期は愛媛福岡に居たり、朝鮮に出兵したこともありました。

生まれは広島県北西部の吉田郡山城(現・安芸高田市)で、

最後は広島県南東部の三原城(現・三原市)で亡くなり、三原市西部の米山寺に眠っています。

どういう人間関係?

毛利元就の三男で、兄の吉川元春と毛利両川体制で毛利家を支えました。

豊臣秀吉に気に入られて五大老となり、黒田官兵衛ともそこそこ仲良しだったみたいです!

スポンサーリンク

何した人?

知将・隆景65年の人生でいろいろやりましたが、一貫していえるのは・・・

「すべては毛利のために」

どこまでも毛利家に尽くした隆景の主要エピソード・逸話は以下の通りです。

三本の矢の教え

これは結構有名な話だと思いますが、

父・毛利元就が息子3人(長男・隆元、次男・元春、三男・隆景)を集めて

1人に1本ずつ矢を渡して・・・

「一本なら簡単に折れるが、三本束ねれば簡単には折れない。

三人で力を合わせて毛利を守りなさい」

っていうお話です。

ちなみに・・・

広島のサッカーチーム「サンフレッチェ」の名は、この三本の矢の教えからきているのです!

日本語の「三(さん)」+ イタリア語の「フレッチェ(矢)」

= サンフレッチェ

エンブレムの中にも三本の矢が描かれています!

三本の矢で「広島の県民市民・行政・財界」「技術・戦術・体力」「心・技・体」を現わしているんだとか。

厳島の戦い

厳島の戦いは、1555年(室町時代)に厳島神社のある宮島であった、毛利元就陶晴賢の戦いです。

この戦いは、九州北部から山陽地域で力を持っていた大内氏の元家臣同士(毛利vs陶)の戦いで、「日本三大奇襲戦」と言われています。

そんな奇襲戦で、小早川隆景(23歳)がしたことは・・・

瀬戸内海の制海権を握る村上水軍を味方につけ、厳島で陶軍を挟み撃ちにする奇襲作戦において、海上封鎖をして海から攻めいりました。

この奇襲作戦により陶軍を壊滅させ、毛利軍の勝利となったわけですが、

もともとの毛利の水軍だけでは全然足りなかったところ、村上水軍を味方に引き入れるため隆景が奔走したことは相当にグッジョブだったのです。

この戦を機に、毛利家は大きく飛躍することになり、中国地方においてイケイケになっていくのです!

厳島の戦いについて詳しく知りたい方は
▼こちらのサイト▼がおすすめ!

中国大返し

中国大返しは1582年(室町時代)、中国地方を制圧しようと織田信長の家臣・羽柴秀吉備中高松城(岡山市)を攻め込んでいた時のこと

本能寺の変信長が死去したため、秀吉が明智光秀を討つために急遽、毛利氏と講和をまとめて大急ぎで大軍で京都に向かった一連の軍事行動です。

そんななか小早川隆景(50歳)がしたことは・・・

秀吉と講和を結ぶ段階では、まだ隆景たちは信長が死んだことは知らなかったんですが、

講和後、信長の死を知ったときに、急ぎ帰っていく秀吉を追撃しないと判断しました。

身内の元春なんかは「いやいや、追撃するべきっしょ!」と主張したんですが、

隆景は秀吉の力量を認めていて、先々のことも考えると秀吉を敵にするのは毛利家にとってよろしくないと察していたんですね。

この時の冷静な判断もあって、秀吉からの信頼を得るようになりました。

そして毛利家は秀吉に臣従するようになるのですが、後の豊臣政権下において毛利家は大勢力を維持したままとなるのです。

舞台となった備中高松城の戦いについては▼こちら▼

四国・九州攻め

その後、毛利家は羽柴(豊臣)秀吉の四国・九州攻めに参戦していきます。

四国攻め

四国攻めは、1585年(安土桃山時代)、秀吉が四国統一をしようとしていた土佐(高知)の長宗我部元親に攻め入った戦です。

結果として、長宗我部元親は降伏し土佐一国に収まることになりました。

ここで小早川隆景(53歳)がしたことは・・・

秀吉の命で毛利軍は伊予(愛媛)を攻めることになり、そこで隆景は大活躍!

その活躍が秀吉に認められ、秀吉は伊予一国独立大名として与えようとします。

が、隆景はそれを伊予は毛利家に与え、毛利家が隆景に伊予を任せるという形にし、

「自分はあくまで毛利家の家臣である」という立場を貫きました。

九州攻め

九州攻めは、1587年(安土桃山時代)、秀吉が九州を平定しようと薩摩(鹿児島)の島津義久に攻め入った戦です。

結果として、島津義久は降伏し、秀吉の九州平定が成功することになります。

ここで小早川隆景(55歳)がしたことは・・・

毛利軍は豊前・豊後(福岡北東部・大分)、日向(宮崎)あたりを攻めることになり、そこでも活躍しました。

そして今度は、秀吉から筑前一国と肥前・筑後の一部を与えると言われました。

隆景は辞退を申し出るのですが、秀吉に認められず、しぶしぶ九州に入ることに・・・

不本意ながら約37万石の大名に出世し、秀吉の直臣となるのです。

秀吉から養子受入れ

1593年(安土桃山時代)、秀吉から毛利輝元(毛利家当主であり隆景の甥)養子の話がありました。

豊臣家の人間が毛利家の養子に入り跡継ぎになれば、毛利家は直に豊臣家のものとなってしまう・・・それは避けたい。

でも、これを断れば毛利家の立場が悪くなるかもしれない・・・どうしよ。

そこで小早川隆景(61歳)がとった行動は・・・

食い気味で秀吉に小早川家の跡取りとして養子を受け入れさせてほしい」と申し出たのです。

ちょうど隆景にも子供はいませんでしたし、食い気味で秀吉に訴えることで

秀吉としても悪い気はせず「そんなに言うなら隆景のとこに行かせるよ!」ってなったわけです。

こうして秀吉の顔を立てつつ、豊臣家の毛利家乗っ取りの可能性を潰したのです。

この時、養子となったのが小早川秀秋(羽柴秀俊)です。

はい、そうです!関ヶ原の戦いで東軍に寝返ったことで有名な彼です。

秀秋は、あまり優れた武将というわけではなくいろいろありつつ、関ヶ原から2年後に21歳で死去しました。

跡取りもいなかったため、これで小早川家は断絶となったのです。

もし、秀秋が毛利家の跡取りとなっていたらどうなっていたでしょうか・・・

スポンサーリンク

で、どんな人だった?

どこまでも毛利家に尽くした小早川隆景。結局、どんな人物だったのか見てみましょう!

武将として

「危険な戦いを慎み、知略を以て敵を屈服させることを得意としていた」と昔の書物に記されています。

隆景は十分熟考したうえで物事に当たるかなり慎重派だったようです。

そのことが分かる話として、親交のあった天才軍師・黒田官兵衛に対して

「私はそなたほど頭が切れぬ。それゆえに、考えに考えて物事を決める。だからこそ、失敗も少ない」と語ったと言われています。

五大老に任命と死去

秀吉から「日本の西は小早川隆景に任せれば全て安泰である」と評価されていた隆景

1953年、61歳の時に五大老と呼ばれる豊臣政権の最高役職に任命されました。

しかし、その4年後、65歳で死去します。

この時、黒田官兵衛は

「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いたそうです。

家族との関係

家族の証言です。「隆景とはどんな仲でしたか?」

政務のみならず私事に係わることでも多数書状のやり取りをして、息子達の中でも特に親子仲がよかったと思います。

毛利両川として一緒に毛利家を全力サポートしました。(俺が養子にいったと隆景の小早を合わせて両川ってことね)

若くして毛利家当主となった自分の教育係としてサポートしてくれました。めちゃめちゃ厳しかったですが・・・

正装して賓客をもてなすような態度を取り、冗談もほとんど言わない感じだったんですが、側室は置かず、仲のいい夫婦だったと思います。

容姿

風采(ふうさい)に優れ、「容姿甚だ美なり」と昔の書物に記されているみたいです。

そして、少年時代には大内義隆から大変好かれていたとか・・・

イケメンで頭が良くて、戦も強いとか・・・最強やん!

三原との関係は?

ここまで見てきて、小早川隆景って、想像以上にすごい人じゃん!

と思った三原人は少なくないのでは?

でも、結局、三原では何してたんすかね?

ということで、隆景と三原についてまとめてみました!

隆景と三原の城

高山城

養子となり小早川家を相続した隆景は、1551年(19歳の時)に小早川家の居城である高山城に入りました。

高山城は、鎌倉・室町時代を通じて沼田小早川氏が本拠地としていた城です。

城は本郷の山の上にあり、現在は城跡として上ることができます。

高山城の様子については▼こちらの記事▼がおすすめ!

新高山城

1552年、隆景(20歳)は高山城と沼田川を挟んで反対側の山にある新高山城を改修して本拠を移しました。

隆景はこの城を約45年間本拠とし、瀬戸内海への進出の礎を築きました。

当時は海の水が山の麓まで入ってきており舟の発着場もあったそうです。

新高山城も現在、城跡へ上ることができます。

新高山城の様子については▼こちらの記事▼がおすすめ!

三原城

1567年、隆景(35歳)は、瀬戸内海の交易路としての有用性の高い三原湾で大島・小島をつないで三原城を築きました。

三原城は、東西約900m、南北約700mの大きさを誇る海に面した名城で、満潮時に城が海に浮かんでいるように見えることから「浮城」とも呼ばれました。

1595年、隆景(63歳)は九州から戻り三原城で隠居しました。

その後、新高山城の石垣を運ぶなどして、三原城の修築を進めていきました。

そして1597年、隆景(65歳)は三原城で病のためこの世を去りました。

隆景と三原の祭り

やっさ祭り

やっさ祭りで踊られる「やっさ踊り」は、三原城完成を祝って踊りだしたのが始まりと言われています。

老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊りました。

それ以来、大衆のなかに祝ごとは”やっさ”に始まり”やっさ”に終わる習わしになったと伝えられています。

隆景が築城した三原城をきっかけに、三原に「やっさ」が根付いていったのです!

神明市

神明市自体は室町時代末期から始まったと言われています。

そんな神明市を隆景は大切なものとし、瓶子一対を寄進し、近郷より繰り出す景気人出の模様を見て、その年の豊凶を考量されたと言われています。

隆景と三原の寺・神社

皇后八幡神社

隆景が厳島の戦い前に必勝祈願した神社

隆景が村上水軍の協力も得て大活躍した厳島の戦いの出陣前に、この神社で御祈願をしました。

その甲斐もあってか、毛利軍は大勝利をおさめました!

戦いの翌年、隆景はこの神社に社殿を寄進しています。

米山寺

隆景が眠る寺

隆景をはじめ、小早川家の代々のお墓があるお寺。

20基のお墓が整然と2列で並んでいます。

法常寺

隆景の葬儀と火葬が行われた寺

隆景が三原城で病で亡くなった後、このお寺で葬儀が行われ、境内で火葬されたそうです。

火葬跡地には隆景を祀った小さな小さな祠(ほこら)があります。

宗光寺

親の毛利元就夫婦を弔うために建てた寺

もともとは高山城内に建てた寺ですが、三原城築城の際に城下の西側を守る砦と兼ねて、現在位置に移されました。

三原城や宗光寺を散策してみたい方は・・・

▼こちらの記事▼を参考にどうぞ!

1時間、三原駅周辺を散歩で暇つぶし!【まち散歩①】広島県三原市 出張や旅行・観光で、三原駅に降り立ったけど、新幹線の時間待ち何しよ・・・ 三原に住んでるけど三原駅ってめったに行かないんだよな、...

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA