三原~広島県~日本~世界の歴史を遡る年表⑤江戸時代編1867→1603年
自分が生きている現代から過去へ遡って、地元の三原から世界へ視野を広げて、歴史を見ていこうという企画!
第5弾は江戸時代(1867→1603年)265年間を遡ります!
序盤と終盤を除いて、徳川幕府の長~い侍の平和な時代です!
注)時系列で見たい人は下から上へスクロール!
\第4弾の明治編はコチラ↓/
江戸時代後半(1867~1736年)




江戸時代末期
三原と周辺
■三原だるま作り始まる
三原だるまは、江戸時代に疫病よけの縁起物として生まれ、城下町三原で武士の副業として広まった。細長い胴、豆絞りの鉢巻、最初から描かれた目、中で鳴る鈴や石が特徴で、神明市の名物として今も親しまれている。
情報みはらだるま
1867年(慶応3年)
三原と周辺
■いろは丸事件
坂本龍馬率いる海援隊の船「いろは丸」が鞆の浦沖で紀州藩船と衝突し沈没した事件。龍馬は鞆に滞在して賠償交渉を進め、航海ルール違反や責任を巡って対立。最終的に賠償金支払いで決着し、幕末を代表する海難・外交事件となった。
情報鞆と龍馬といろは丸
日本
■大政奉還
15代将軍徳川慶喜が、政治の権限を朝廷に返すと申し出て、朝廷がこれを認めた出来事。薩長の討幕運動が強まる中、土佐藩の提案も受けて行われたが、実際の権力争いは続き、のちの王政復古と明治政府成立へつながった。
■近江屋事件
京都の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃された事件。大政奉還後の政局が緊迫する中で起き、龍馬はその場で死亡、中岡も後に死亡した。実行犯は京都見廻組が有力とされているが、諸説があり、幕末史を代表する暗殺事件となっている。
情報近江屋事件(刀剣ワールド)
1866年(慶応2年)
日本
■薩長同盟
対立していた薩摩藩と長州藩が、幕府に対抗するために結んだ政治同盟。坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介で成立し、薩摩は長州の武器調達などを支援した。これにより倒幕運動が大きく進み、のちの明治維新へつながる重要な転機となった。
情報薩長同盟(刀剣ワールド)
1865年(元治2年/慶応1年)
世界
■南北戦争終結
アメリカで奴隷制を広げたい南部と抑えたい北部の対立が深まり、1861年に南部諸州が連邦を離脱し、始まった。1865年、南軍のリー将軍が降伏して戦争は決着し、合衆国の再統合が進んだ。戦後には奴隷制廃止も実現した。
情報南北戦争とは?日本は何時代?きっかけと北部が勝った理由や南部北部の違い・いつから始まったのかを解説!
1864年(文久4年/元治1年)
広島県
■第一次長州戦争で広島に幕府本営
幕府が長州藩を討とうとした第一次長州戦争で、幕府は広島を本営の地とした。広島は長州に近く、諸藩兵を集めやすい要地だったためで、広島城下には幕府軍が集結した。だが本格的な大戦闘には至らず、長州藩の謝罪と処分受け入れで戦いはひとまず収まった。
日本
■五稜郭完成
幕末に箱館防備を強めるため築かれた西洋式城郭が完成した。幕府は北方警備と開港地防衛のため築造を進め、完成後は箱館奉行所を移して蝦夷地支配の拠点とした。星形の独特な構造で知られ、のちに箱館戦争の舞台にもなった。
情報五稜郭の歴史(函館市)
1863年(文久3年)
日本
■薩英戦争
生麦事件で薩摩藩士がイギリス人を殺傷し、賠償や犯人処罰を巡って対立したことから起きた戦い。イギリス艦隊が鹿児島を攻撃し、薩摩も応戦した。戦後、薩摩は欧米の軍事力の大きさを知り、攘夷から開国へと方針を転じる契機となった。
情報薩英戦争(刀剣ワールド)
1862年(文久2年)
1861年(万延2年/文久1年)
世界
■イタリア王国成立
ばらばらだったイタリアの国々を一つの国にまとめる動きが大きく実った出来事。北の国サルデーニャ王国を中心に統一が進み、国王が立てられて新国家が生まれた。ただし、この時点ではローマやヴェネツィアはまだ含まれていなかった。
情報初代首相・領土拡大図
1860年(安政7年/万延1年)
三原と周辺
■酔心創業
酔心の創業は、尾道の山根家の山根源四郎が、三原にあった既存の酒蔵「出羽屋」を買い受けて酒造りを始めた。酔心の酒は全国新酒鑑評会で金賞を受けるなど評価が高く、超軟水仕込みによる、きめ細やかでなめらかな味わいでも知られる。今は三原唯一の酒蔵となっている。
情報酔心公式HP

■八朔発見
八朔は、因島の浄土寺で見つかったとされる柑橘。温州みかんのような親しみやすい甘さ一辺倒ではなく、ほろ苦さと酸味、しっかりした果肉が持ち味で、大人っぽい味として広まった。今では因島を象徴する特産品となり、はっさくゼリーやはっさく大福など土産物にも欠かせない。
日本
■桜田門外の変
江戸城桜田門外で大老の井伊直弼が、水戸藩などの浪士に殺害された事件。背景には、日米修好通商条約を朝廷の許可なく結んだことや、反対派を厳しく弾圧した安政の大獄への反発があった。この事件は幕府の権威を大きく揺るがし、幕末政局の混乱をいっそう深めた。
情報桜田門外の変(刀剣ワールド)
1859年(安政6年)
三原と周辺
■鞆の浦の常夜燈完成
潮待ちの港として栄えた鞆港で、夜の船の出入りを導く灯台として常夜燈が建てられた。西町の人々が寄進したもので、地元では「とうろどう」とも呼ばれる。高さは10メートルを超え、現存する江戸時代の常夜燈では最大級で鞆の浦を象徴する風景になっている。


1858年(安政5年)
日本
■日米修好通商条約
アメリカの強い開国要求を受けて江戸幕府が結んだ条約。神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の開港や自由貿易を認めた一方、日本には関税自主権がなく、外国人を日本の法律で裁きにくい不平等な内容も含まれていた。これが幕末の反発と混乱を強めた。
情報日米修好通商条約(刀剣ワールド)
■安政の大獄
幕府の実力者・井伊直弼が、日米修好通商条約に反対した人や、次の将軍を誰にするかで幕府に逆らった大名、公家、武士らを厳しく弾圧した事件。福井藩の橋本左内や長州藩の吉田松陰らも処罰され、幕府への反発が強まり、のちの桜田門外の変へつながった。
情報安政の大獄(刀剣ワールド)
1857年(安政4年)
日本
■松下村塾開塾
吉田松陰が萩で始めた私塾が本格的に動き始め、身分にとらわれず人を集め、講義を聞くだけでなく議論を重ねる学びが特徴だった。ここで高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞らが学び、のちの維新を担った。
情報松下村塾(松陰神社)
1856年(安政3年)
1855年(安政2年)
三原と周辺
■誠之館設立
福山藩主・阿部正弘が、変化する時代に対応できる人材を育てるため、前身の弘道館を改め、西町道三口(現霞町)に藩校を設けた。儒学だけでなく洋学・医学・数学・兵学も学び、試験制度も取り入れた先進的な学校で、福山藩の近代化を支える拠点となった。
情報福山市HP
1854年(嘉永7年/安政1年)
広島県
■三次人形作り始まる
石見国から来た瓦職人・大崎忠右衛門が三次の宮ノ峡に窯を築き、作り始めたとされている。地元の良質な粘土を焼き、胡粉や膠で彩色するため、つやのある「光人形」として知られ、天神や武者、姫だるまなど種類も多く、三次を代表する郷土玩具へ育っていく。
情報日本伝統文化振興機構
日本
■日米和親条約・日本開国
日米和親条約は、ペリー再来航の圧力を受けた幕府がアメリカと結んだ条約。下田・箱館を開き、遭難船の救助や薪水・食料の補給も認めた。これにより、それまでの鎖国体制は大きく揺らぎ、日本は外国と関わる開国へ踏み出した。
情報日米和親条約(刀剣ワールド)
■安政東海地震・南海地震
安政東海地震・南海地震は、東海沖で発生した大地震の約32時間後、今度は紀伊水道・四国沖でも大地震が起きた連動型の巨大地震。被害は伊豆から四国にかけての広い範囲に及び、死者は数千人、倒壊家屋は30,000棟以上という大きな被害をもたらした。
情報安政東海地震・安政南海地震(Yahoo!天気・災害)
■松山城再建(現存12天守)
松山城は江戸時代前半に築城されたが、落雷により焼失し、その後再建したものが現在まで残っている。標高132mの勝山山頂に本丸を置く平山城で、連立式天守や複雑な門・石垣に攻めにくさを追求した工夫が残り、松山の城下町と瀬戸内海を見渡す姿も魅力。
情報松山城公式HP



1853年(嘉永6年)
三原と周辺
■備後絣の生産始まる
備後絣の生産は、福山市芦田町の富田久三郎が井桁模様の絣を織り出したことに始まる。丈夫な木綿織として備後に広がり、日本三大絣の一つとなった。最盛期には全国一の生産量を誇ったが、いまは織元が1社だけ残る貴重な伝統工芸となっている。
情報備後絣 -びんごがすり-
日本
■黒船来航
アメリカのペリーが黒船(4隻の巨大な軍艦)で浦賀に来航し、日本に開国を迫った。江戸幕府の鎖国体制が揺らぎ、尊王攘夷や倒幕の動きが高まるきっかけとなり、日本が世界と向き合う転換点となった。
1852年(嘉永5年)
1851年(嘉永4年)
世界
■ロンドン万博
ロンドン万博は、産業革命で力をつけたイギリスが、自国と世界の工業製品や技術を集めて開いた最初の大規模な万国博覧会。ロンドンのハイド・パークにガラスと鉄の巨大建築クリスタル・パレスが造られ、各国の品々が並んだ。近代の万博時代の出発点となった。
情報国立国会図書館
1850年(嘉永3年)
1849年(嘉永2年)
1848年(弘化5年/嘉永1年)
1847年(弘化4年)
1846年(弘化3年)
1845年(弘化2年)
1844年(天保15年/弘化1年)
1843年(天保14年)
1842年(天保13年)
日本
■偕楽園造成
偕楽園は、水戸藩主・徳川斉昭が、藩校弘道館と対になる施設として造らせた庭園。学問に励む場だけでなく、心身を休める場も必要だという考えから、千波湖を望む景勝地に開かれた。「衆とともに楽しむ」という名の通り、領民にも開放された点が大きな特徴で、日本三名園の一つ。
情報偕楽園HP
1841年(天保12年)
日本
■天保の改革
天保の改革は、飢饉や物価高、幕府財政の悪化を立て直すため、水野忠邦が進めた幕政改革。ぜいたくの禁止、人返し令、株仲間の解散などで社会を引き締めようとしたが、江戸・大坂周辺の土地を幕府直轄にしようとした上知令は強い反発を受け、改革は行き詰まった。
1840年(天保11年)
世界
■アヘン戦争
イギリスが中国にアヘンを大量に売り込み、清がこれを厳しく取り締まったことから始まった戦争。武力で勝るイギリスは沿岸部を攻撃し、清は敗北した。戦後の南京条約で香港を割譲し、港の開放や賠償も受け入れさせられ、中国が列強に押し込まれる近代の出発点となった。
1839年(天保10年)
1838年(天保9年)
1837年(天保8年)
日本
■大塩平八郎の乱
飢饉や米価高騰で苦しむ人々を救えない幕府や豪商への怒りから、大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎が起こした反乱。同志とともに世直しを訴えて挙兵したが、半日ほどで鎮圧された。ただ、この事件は幕府の衰えを印象づけ、各地の一揆や打ちこわしにも影響を与えた。
情報大塩平八郎の乱(刀剣ワールド)
1836年(天保7年)
世界
■凱旋門完成
凱旋門は、ナポレオンがアウステルリッツの勝利を記念し、フランス軍の栄光をたたえるために造らせた記念門。工事は政変やナポレオン失脚で中断したが、その後に再開されて完成した。パリのシャンゼリゼ西端に立ち、フランスの栄光と激動の近代史を象徴する建築として知られる。
1835年(天保6年)
1834年(天保5年)
1833年(天保4年)
日本
■天保の大飢饉
長雨や洪水、冷害が続いて全国的な凶作となり、米価の高騰で人々の暮らしが深く追い詰められた。とくに農村の被害は深刻で、餓死や逃散が相次ぎ、都市でも困窮が広がった。幕府や諸藩の救済は十分ではなく、のちの大塩平八郎の乱や天保の改革につながる大きな要因となる。
■歌川広重『東海道五十三次』制作(この頃)
幕府の京都派遣に同行して東海道を旅した体験をもとに生まれた浮世絵シリーズ。宿場ごとの名所だけでなく、雨や雪、旅人のしぐさまで生き生きと描いたことが新しかった。旅ブームにも乗って大ヒットし、風景版画を代表する作品となった。
情報刀剣ワールド浮世絵
1832年(天保3年)
1831年(天保2年)
1830年(文政13年/天保1年)
広島県
■熊野筆作り始まる(この頃)
熊野筆づくりは、農業だけでは暮らしが苦しかった熊野で、近畿方面から筆や墨を仕入れて売る商いが広がったことを土台に始まった。やがて村人が広島藩の御用筆司や有馬で技法を学び、村に伝えて産地として発展。今では書筆だけでなく画筆や化粧筆でも知られる日本一の筆のまちとなっている。
情報熊野筆事業協同組合
日本
■葛飾北斎『冨嶽三十六景』制作(この頃)
富士信仰や旅ブームが広がる中で生まれた風景版画の代表作。各地から見た富士山を大胆な構図と鮮やかなベロ藍で描き、庶民の暮らしも生き生きと表した。今では浮世絵を代表する作品として世界中で親しまれ、西洋美術にも大きな影響を与えた。
情報刀剣ワールド浮世絵
1829年(文政12年)
1828年(文政11年)
世界
■シューベルト没
シューベルトは、やさしく美しいメロディーで知られるオーストリアの作曲家。歌曲を数多く作り、とくに『魔王』や『アヴェ・マリア』は今もよく知られている。31歳で早くに亡くなったが、短い生涯の中で多くの名曲を残し、今ではクラシック音楽を代表する作曲家の一人とされている。
1827年(文政10年)
世界
■ベートーベン没
ベートーベンは、ドイツを代表する作曲家で、『運命』や『第九』などの名曲を残した。晩年は耳が聞こえない苦しみを抱えながらも創作を続け、56歳で亡くなった。感情を力強く表現する音楽は、後の時代にも大きな影響を与えた。
1826年(文政9年)
1825年(文政8年)
日本
■異国船打払令
19世紀に入ると、日本近海に欧米船がたびたび現れていたため、幕府は警戒を強めており、外国船を見つけたら砲撃して追い払う「異国船打払い令」を出した。実際に1837年には、漂流民を送り返そうとしたアメリカ船モリソン号にも砲撃が行われた。
1824年(文政7年)
1823年(文政6年)
1822年(文政5年)
1821年(文政4年)
1820年(文政3年)
広島県
■広島が人口7万人の大都市へ(この頃)
江戸・大坂・京都が三大都市だった江戸時代、1820年頃の広島城下も人口約7万人を抱える大都市であった。金沢や名古屋には及ばないものの、仙台や鹿児島に並ぶ規模で、中国地方では屈指の城下町として栄えていた。
情報広島藩(江戸の世のひろしま探訪)
1819年(文政2年)
1818年(文化15年/文政1年)
1817年(文化14年)
1816年(文化13年)
1815年(文化12年)
世界
■ドイツ連邦成立
ナポレオン戦争後のウィーン会議を受け、ドイツ連邦が成立した。当時のドイツ地域は現在のような一つの国ではなく、多数の王国・公国・自由都市が分立しており、こうした国々が独立性を残しながら、共通の会議を通じてゆるやかにつながっていた。
1814年(文化11年)
1813年(文化10年)
1812年(文化9年)
1811年(文化8年)
世界
■中南米独立ラッシュ(~1828年)
1811年 パラグアイ、ベネズエラがスペインから独立。
1816年 アルゼンチンがスペインから独立を宣言。
1818年 チリがスペインから独立。
1819年 コロンビアがスペイン支配から離れ、グラン・コロンビア成立の基礎が築かれました。
1821年 メキシコ、ペルーがスペインから独立。
1822年 ブラジルがポルトガルから独立。
1825年 ボリビアがスペインから独立。
1828年 ウルグアイがブラジルとアルゼンチンのはざまで独立国家として承認されました。

1810年(文化7年)
日本
■弘前城建造(現存12天守)
弘前城の天守は江戸時代初めに落雷で焼失しており、現在残る天守はその後に建てられたもの。三層三階の小ぶりな姿ながら、雪国の城らしい銅瓦の屋根をもち、近年は石垣修理のため天守ごと移動されたことでも知られる。
情報弘前城(HIROSAKI Heritage)


世界
■ハワイ王国誕生
カメハメハ1世がハワイ諸島を統一し、ハワイ王国が誕生した。それまで島ごとに首長が争っていたが、武器や外国船との交易も利用して勢力を拡大。王国成立後はホノルルなどの港が発展し、太平洋航路の重要な拠点となっていった。
情報誕生から滅亡まで。ハワイ王国の歴史を振り返る
1809年(文化6年)
1808年(文化5年)
1807年(文化4年)
三原と周辺
■尾道渡船始まる
尾道と向島の間では古くから小舟で人や荷物が行き来しており、1807年には広島藩が「渡海規則書」を出して渡船の運航ルールを整えた。島民は無料で利用できたことから「只の渡し」とも呼ばれ、この渡船文化は現在も尾道水道を結ぶ生活の足として受け継がれている。
情報尾道渡船(尾道市HP)
1806年(文化3年)
1805年(文化2年)
1804年(享和4年/文化1年)
世界
■ナポレオン皇帝即位
フランス革命で王政を倒したフランスでは、混乱を収めた軍人ナポレオンが強い支持を集め、1804年に皇帝へ即位した。革命で「王の時代」を終わらせたはずの国が、再び一人の指導者に大きな権力を与えた出来事であり、フランスがヨーロッパへ勢力を広げる出発点となった。
■人口10億人
世界の人口は、1804年頃に初めて10億人を超えたとされる。ジャガイモなど新大陸由来の作物が広まり、食料生産が安定しつつあったことに加え、天然痘への種痘など感染症対策も始まり、人類の数はゆるやかに増えていった。
1803年(享和3年
1802年(享和2年)
1801年(寛政13年/享和1年)
1800年(寛政12年)
日本
■伊能忠敬の測量旅(~1816年)
伊能忠敬は、50歳を過ぎてから天文学や測量を学び、1800年に全国測量の旅を始めた。蝦夷地を皮切りに、東北・関東・東海・西日本へと海岸線をたどりながら距離や方位を細かく測り、その成果は日本初の本格的な実測地図「伊能図」へ結びついた。
情報伊能図(国土地理院)
1799年(寛政11年)
1798年(寛政10年)
1797年(寛政9年)
1796年(寛政8年)
1795年(寛政7年)
1794年(寛政6年)
1793年(寛政5年)
1792年(寛政4年)
1791年(寛政3年)
1790年(寛政2年)
広島県
■宮島杓子作り始まる(この頃)
信仰の島である宮島杓子は田畑を広げにくく、産業が限られていたため、僧・誓真が島の人々の暮らしを助けるため、弁財天の琵琶の形をもとに考案した。「福をすくう」縁起物としても親しまれ、宮島を代表する土産物となる。
1789年(天明9年/寛政1年)
世界
■フランス革命
王や貴族がぜいたくに暮らす一方で、税を負担する庶民の不満が限界に近づいていたフランスで革命が発生。この革命は、国の主役を「王」から「市民」へ変えようとした市民革命で、自由・平等・国民主権を掲げる大きな転換点となった。
1788年(天明8年)
世界
■オーストラリアへイギリス入植
アメリカ独立によって流刑地を失ったイギリスは、国内の刑務所不足にも悩まされるなか、新たな送り先としてオーストラリアに目を向けた。1788年、囚人や兵士を乗せた船団がシドニー湾に到着し、先住民アボリジナルの土地にイギリスの入植地が築かれていった。
1787年(天明7年)
日本
■寛政の改革
江戸の物価高や飢饉で社会が不安定になるなか、老中・松平定信が進めた改革。ぜいたくを禁じ、旗本・御家人の借金救済や農村復興を図ったが、締めつけが強く人々の反発も招き、短期的な立て直しにとどまった。
情報寛政の改革(刀剣ワールド)
1786年(天明6年)
1785年(天明5年)
日本
■人口約3000万人
江戸時代前半に大きく増えた日本の人口は、この頃には約3000万人規模に達したが、人口は頭打ちになりつつある時代でもあった。そのころ、江戸は100万人前後の巨大都市で、ロンドンやパリを上回る世界有数の都市だった。
1784年(天明4年)
1783年(天明3年)
日本
■浅間山大噴火
浅間山が大噴火し、火砕流や泥流が周辺の村々をのみ込み、死者は1,600人以上にのぼった。火山灰は江戸にも降り、農作物への被害は天明の飢饉をさらに深刻化させるなど、日本の歴史上でも大きな被害を出した火山災害の一つとなった。
1782年(天明2年)
1781年(安永10年/天明1年)
1780年(安永9年)
1779年(安永8年)
1778年(安永7年)
1777年(安永6年)
1776年(安永5年)
世界
■アメリカ独立宣言
独立戦争が続くなか、フィラデルフィアに集まった13植民地の代表たちは、イギリスからの独立を宣言した。宣言には「すべての人は平等につくられた」という考えが記され、国王の支配ではなく、人々の権利をもとに国をつくるという新しい理念が示された。
1775年(安永4年)
世界
■アメリカ独立戦争
北米13植民地では、紅茶や印紙への課税などをめぐってイギリス本国への不満が高まっており、ボストン近郊で植民地側の民兵とイギリス軍が衝突し、戦争が始まった。税金への反発は、やがて独立を目指す戦いへと変わっていった。
1774年(安永3年)
日本
■杉田玄白『解体新書』
杉田玄白らは、人体解剖を見てオランダ医学書の正確さに衝撃を受け、『解体新書』を翻訳・出版した。西洋医学を日本に広めた画期的な本だが、辞書も十分でない時代の翻訳は手探りで、「体の中」を知る大冒険のような挑戦だった。
情報解体新書(京都大学記帳資料デジタルアーカイブ)
1773年(安永2年)
1772年(明和9年/安永1年)
1771年(明和8年)
1770年(明和7年)
1769年(明和6年)
1768年(明和5年)
1767年(明和4年)
1766年(明和3年)
1765年(明和2年)
1764年(宝暦14年/明和1年)
1763年(宝暦13年)
1762年(宝暦12年)
1761年(宝暦11年)
1760年(宝暦10年)
世界
■産業革命(この頃から)
この頃、イギリスでは、手作業中心だった布づくりに機械が使われ始め、工場で大量生産する時代が始まった。蒸気機関の改良で動力も大きく変わり、人々の働き方や都市の姿も変化していった。この産業革命はイギリスから始まり、やがてヨーロッパや世界へ広がっていく。ちなみに、日本では明治維新で産業革命が起きる。
1759年(宝暦9年)
1758年(宝暦8年)
1757年(宝暦7年)
1756年(宝暦6年)
1755年(宝暦5年)
1754年(宝暦4年)
1753年(宝暦3年)
1752年(宝暦2年)
1751年(寛延4年/宝暦1年)
1750年(寛延3年)
1749年(寛延2年)
1748年(延享5年/寛延1年)
1747年(延享4年)
日本
■高知城建造(現存12天守)
高知城は、山内一豊が土佐に入った後に築いた城で、現在の天守は1727年の大火後、1747年に再建された。天守と本丸御殿がそろって残る全国でも珍しい城で、石落としや忍び返しなど守りの工夫を残しながら、高知の町を見下ろしている。
情報高知城公式HP
1746年(延享3年)
1745年(延享2年)
1744年(寛保4年/延享1年)
日本
■出雲大社本殿完成
出雲大社の現在の本殿が完成。かつてはさらに巨大だったとも伝わる社殿を、当時の技術で高さ約24mの大きな本殿として再建。日本最古級の神社建築様式「大社造」を今に伝え、神話の世界を感じさせる建築である。
情報出雲大社公式HP
1743年(寛保3年)
1742年(寛保2年)
1741年(元文6年/寛保1年)
1740年(元文5年)
1739年(元文4年)
1738年(元文3年)
1737年(元文2年)
1736年(享保21年/元文1年)
三原と周辺では、尾道・鞆・竹原・福山・因島などが、それぞれの個性を伸ばしていった時代。尾道渡船や鞆の常夜燈は瀬戸内の交通を支え、福山では誠之館や備後絣、三原では酔心、因島では八朔が生まれる。幕末の鞆の浦でいろは丸事件も起き、地域の港町が全国史とつながっていたことが分かる。
広島県では、城下町・港町・産業の発展が目立つ時代だった。広島城下は人口約7万人の大都市となり、宮島では杓子、熊野では筆、三次では人形づくりが広がる。一方で幕末には、第一次長州戦争で広島に幕府本営が置かれるなど、広島は単なる地方都市ではなく、西日本の政治・軍事の動きにも深く関わる場所になっていった。
日本全体では、江戸時代の安定が続く一方で、社会のゆがみが少しずつ大きくなった時代。人口は約3000万人に達したが、飢饉や物価高、幕府財政の悪化により、寛政・天保の改革が行われる。文化面では北斎や広重、伊能忠敬、『解体新書』などが登場し、幕末には黒船来航や大政奉還へとつながっていく。
世界では、王や帝国の時代から、市民・国家・産業の時代へ大きく動き始めていた。アメリカ独立、フランス革命、産業革命、ナポレオンの登場、中南米の独立などにより、政治と経済の仕組みが変わっていく。さらにアヘン戦争やロンドン万博に象徴されるように、欧米列強の力が世界へ広がり、日本もその波を避けられなくなっていった。
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江戸時代前半(1735~1603年)




1735年(享保20年)
1734年(享保19年)
1733年(享保18年)
三原と周辺
■竹鶴酒造創業
日本のウイスキーの父・竹鶴政孝(マッサン)の生家として知られる竹鶴酒造が竹原で創業した。製塩や港で栄えた町の経済を背景に酒造りを始め、のちに「小笹屋竹鶴」の名で知られる個性的な酒をつくる。
情報竹鶴:風土と歴史(公式HP)

1732年(享保17年)
1731年(享保16年)
1730年(享保15年)
1729年(享保14年)
1728年(享保13年)
1727年(享保12年)
1726年(享保11年)
1725年(享保10年)
広島県
■講学所(現・修道学園)開設
広島藩では、藩士の子どもたちを教育し、政治を支える人材を育てるため、武術練習場だった白島稽古屋敷の一部に講学所を開いた。武道だけでなく学問も重んじた学びの場で、現在の修道学園の源流にあたる。
情報修道ヒストリア
1724年(享保9年)
1723年(享保8年)
1722年(享保7年)
1721年(享保6年)
1720年(享保5年)
1719年(享保4年)
1718年(享保3年)
1717年(享保2年)
1716年(正徳6年/享保1年)
日本
■享保の改革
江戸幕府の財政が苦しくなるなか、「暴れん坊将軍」として知られる徳川吉宗は享保の改革を進めた。新田開発や倹約で幕府収入は一時持ち直し、目安箱や裁判基準の整備も進んだが、年貢負担は重く、庶民や農民には厳しさも残った。
情報 享保の改革(刀剣ワールド)
1715年(正徳5年)
1714年(正徳4年)
1713年(正徳3年)
1712年(正徳2年)
1711年(宝永8年/正徳1年)
1710年(宝永7年)
三原と周辺
■阿部正邦が福山藩主へ
阿部正邦は、現在の埼玉県にあたる武蔵国に生まれ、岩槻・宮津・宇都宮などを治めた後、福山藩主として入封した。農村の実態を把握するため領内の石高や戸口、牛馬の数を調べ、治安の決まりも整備した。ここから明治まで続く福山藩阿部家の時代が始まる。
情報福山城博物館
1709年(宝永6年)
1708年(宝永5年)
1707年(宝永4年)
日本
■宝永大地震、宝永大噴火
宝永大地震は、南海トラフ沿いで起きた巨大地震で、津波や家屋倒壊により西日本を中心に死者は少なくとも5,000人以上、全壊家屋5万軒以上、流失家屋約2万軒に及んだ。その49日後には富士山が宝永大噴火を起こし、江戸にも火山灰が降った。地震と噴火が続いた、江戸時代屈指の大災害だった。
情報Wikipedia
1706年(宝永3年)
1705年(宝永2年)
1704年(元禄17年/宝永1年)
1703年(元禄16年)
1702年(元禄15年)
日本
■赤穂浪士事件
赤穂藩の元家臣たちは、主君・浅野内匠頭を切腹に追い込んだ吉良上野介の屋敷へ討ち入った。藩を失い浪人となった彼らが約2年かけて果たした復讐は、忠義の美談として語られる一方、法を破ってまで仇討ちをすることの是非を江戸の人々に問いかけた。
情報元禄赤穂事件(刀剣ワールド)
■奥の細道(松尾芭蕉)出版
松尾芭蕉が東北・北陸を旅した記録をもとにした紀行文学「奥の細道」は、芭蕉の死後、1702年に刊行された。旅先の風景や人との出会いを俳句と文章で描き、「旅をしながら人生を見つめる」ような味わいを持つ名作。
情報奥の細道むすびの地記念館
『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』
山形・立石寺で詠まれた句。静けさの中に蝉の声が深く響く、芭蕉を代表する一句。
『夏草や 兵どもが 夢の跡』
岩手・平泉で詠まれた句。かつて栄えた奥州藤原氏や武士たちの栄華が、今は夏草に覆われているという無常感がある。
『荒海や 佐渡によこたふ 天河』
新潟・出雲崎付近で詠まれた句。荒れる日本海の向こうに佐渡島、その上に天の川が広がる壮大な景色を描いている。
1701年(元禄14年)
1700年(元禄13年)
三原と周辺
■宮沖新開の干拓(この頃)
三原は山が海に迫り、平地が少ない町だったため、江戸時代には干拓で土地を広げていった。なかでも1700年に開かれた宮沖新開は三原最大の干拓地で、現在の宮沖町・宮浦町・皆実町一帯にあたり、三原の町の広がりを支える大きな土地開発だった。
情報宮沖新開(三原市)
■松平忠雅が福山藩主へ
松平忠雅は、伊勢桑名藩主などを務めた後、1700年に福山藩主となった。福山ではわずか10年ほどの治世だったが、この時代も藩主交代が続き、福山藩の支配者は安定しなかった。のちに阿部家が入る前の、過渡期の藩主である。
情報福山城博物館
1699年(元禄12年)
1698年(元禄11年)
広島県
■上下が天領に
上下は、石見銀山と瀬戸内を結ぶ交通の要地として栄えた町で、1698年に幕府直轄地である天領となった。代官所が置かれ、幕府の支配拠点となったことで、人や物資、情報が集まる町として発展し、白壁の商家が並ぶ町並みの土台が築かれた。
情報上下天領ツーリズム
1697年(元禄10年)
1696年(元禄9年)
1695年(元禄8年)
1694年(元禄7年)
1693年(元禄6年)
1692年(元禄5年)
1691年(元禄4年)
1690年(元禄3年)
1689年(元禄2年)
1688年(貞享5年/元禄1年)
1687年(貞享4年)
日本
■後楽園整備
後楽園は、岡山藩主・池田綱政が家臣に命じ、1687年から整備が始まった大名庭園。広い芝生や池、築山を歩きながら景色を楽しめる造りが特徴で、岡山城を借景にした開放的な眺めが魅力。藩主の憩いと客人をもてなす場だった。
情報後楽園公式HP

世界
■ニュートン「万有引力の法則」発表
ニュートンは1687年、著書『プリンキピア』で万有引力の法則を発表した。リンゴが落ちる力も、月が地球の周りを回る力も、同じ仕組みで説明できると考えた点が画期的だった。宇宙と地上を一つの法則で結びつけた、科学史の大転換である。
1686年(貞享3年)
1685年(貞享2年)
日本
■生類憐みの令
徳川綱吉は、殺生を慎ませて命を大切にする考えから、天下の悪法・生類憐みの令を出した。はじめは捨て子や病人、動物の保護も含む命の尊重策だったが、犬の保護が過度に進み、江戸郊外に大規模な犬小屋が造られるなど、庶民や幕府財政に重い負担となり、綱吉の死亡後、廃止された。
1684年(天和4年/貞享1年)
1683年(天和3年)
日本
■備中松山城建造(現存12天守)
現存する備中松山城は、1681年から水谷勝宗が大修築を進め、臥牛山に天守や二重櫓を整えた城。標高430mの険しい山に築かれたため、登るだけでも大変な“守りの城”だった。明治の廃城令後も天守が残り、今では雲海に浮かぶ「天空の城」として知られる。
情報備中松山城公式HP
1682年(天和2年)
1681年(延宝9年/天和1年)
1680年(延宝8年)
1679年(延宝7年)
1678年(延宝6年)
1677年(延宝5年)
1676年(延宝4年)
日本
■兼六園整備
兼六園は、加賀藩5代藩主・前田綱紀が別荘「蓮池御亭」を造らせたことに始まる。もとは藩主の庭だったが、代々の藩主が手を加え、池や築山、茶屋を備えた名園へ発展。金沢城とともに加賀百万石の豊かさを伝える。
情報兼六園公式HP
1675年(延宝3年)
広島県
■白牡丹酒造創業
白牡丹酒造は、武士の家系に生まれた島六郎兵衛晴正が「嘉登屋」の屋号で酒造りを始めたことに始まる。西条で最古級の酒蔵で、後に京都の名門公家・鷹司家から「白牡丹」の名を授かった。やわらかな口当たりと上品な味わいで知られ、文人にも愛された酒蔵。
情報白牡丹公式HP
1674年(延宝2年)
1673年(寛文13年/延宝1年)
三原と周辺
■尾道が北前船の寄港地となり、広島藩の台所へ
この頃から尾道は北前船が寄港する港町として発展した。西廻り航路で運ばれる米や塩、海産物などが集まり、尾道水道沿いには問屋や商家が並んだ。広島藩の物資流通を支える重要な港となり「広島藩の台所」とも呼ばれた。
1672年(寛文12年)
1671年(寛文11年)
1670年(寛文10年)
1669年(寛文9年)
日本
■シャクシャインの戦い
和人とアイヌは古くから交易を行っていたが、松前藩が取引を支配するようになると、アイヌ側には不利な条件が広がった。そうした不満を背景に、1669年、首長シャクシャインを中心に蜂起。戦いは北海道各地に広がったが、和睦交渉の場でシャクシャインは殺され、松前藩の支配が強まった。
1668年(寛文8年)
1667年(寛文7年)
1666年(寛文6年)
広島県
■御手洗の港町整備始まる
御手洗は、瀬戸内海を行き交う船が潮や風を待つ港として、17世紀中頃から町の形が整えられていった。土地が狭いため埋め立てを重ね、商家や船宿、茶屋が並び、北前船も寄港する港町へ発展。今も石垣や雁木に、海運で栄えた面影が残る。
情報御手洗の歴史(御手洗重伝建を考える会)

1665年(寛文5年)
1664年(寛文4年)
日本
■宇和島城建造(現存12天守)この頃
宇和島城は、築城の名手・藤堂高虎が築いた城をもとに、伊達宗利の時代に現在の天守が整えられた。三層三階の天守は、戦うための厳しさよりも白壁の美しさが目を引く姿で、宇和島の町と海を見守るように建っている。
情報うわじま観光ガイド
世界
■ニューアムステルダムからニューヨークへ改名
現在の世界都市ニューヨークも、始まりはハドソン川河口の小さな港町だった。オランダは1620年代からこの地に交易拠点を築き、ニューアムステルダムとして発展させたが、英蘭が海上貿易を争うなか、1664年にイギリス艦隊が占領。ヨーク公にちなんでニューヨークと改名された。
1663年(寛文3年)
1662年(寛文2年)
1661年(万治4年/寛文1年)
世界
■ベルサイユ宮殿造成
フランス国王ルイ14世は、父の狩猟館があったベルサイユを壮大な宮殿へ造り替え始めた。貴族たちを宮殿に集めて王の支配下に置き、豪華な建物や庭園によって自らの権力を示したベルサイユ宮殿は、絶対王政を象徴する舞台となった。
情報ヴェルサイユ宮殿と庭園(世界遺産ナビpamon)
1660年(万治3年)
日本
■丸亀城天守完成(現存12天守)
丸亀城天守は、1660年頃に完成し、三層三階の小ぶりな天守だが、山全体を利用した高い石垣の上に建つため、実際以上に大きな存在感を放つ。曲線を描く「扇の勾配」と呼ばれる石垣も特徴で、防御性と美しさを兼ね備えた城である。
情報丸亀城公式HP

1659年(万治2年)
三原と周辺
■保命酒の醸造始まる
この頃、鞆の浦で漢方薬の知識をもとにした薬味酒「保命酒」の醸造が始まった。もち米や焼酎に十数種類の薬草を漬け込む独特の酒で、港町・鞆を訪れる旅人や船乗りにも親しまれた。今も福山・鞆の名物として受け継がれている。
情報鞆物語

1658年(明暦4年/万治1年)
1657年(明暦3年)
1656年(明暦2年)
1655年(承応4年/明暦1年)
1654年(承応3年)
1653年(承応2年)
世界
■タージマハル完成
タージマハルは、ムガル帝国皇帝シャー・ジャハーンが、亡き妻ムムターズ・マハルを弔うために築かせた白大理石の霊廟で、1653年頃に完成した。左右対称の美しい建物と庭園は、愛する人への想いが形になった世界的な名建築として知られる。
情報タージ・マハル(世界遺産ナビpamon)
1652年(慶安5年/承応1年)
世界
■喜望峰にケープタウン建設
オランダ東インド会社は、アジア航路の中継地として、喜望峰近くにケープタウンを築いた。船に水や食料を補給する小さな拠点として始まったが、やがてヨーロッパ人の入植が進み、南アフリカの歴史を大きく変える出発点となる。
1651年(慶安4年)
1650年(慶安3年)
三原と周辺
■竹原で製塩開始・繁栄
この頃、竹原では赤穂から伝わった入浜式塩田の技術により、製塩が本格化した。潮の満ち引きを利用して海水を引き入れる方法は、遠浅の海と干満差のある竹原に適しており、塩の生産は町に大きな富をもたらした。竹原が豊かな町並みを育てる土台となる。
日本
■人口約1800万人
この頃の日本は、戦乱が終わって社会が安定し、人口が約1800万人(今の東京都より少し多いくらい)に達した。当時の世界ではインドが1億人超、中国も1億人前後の人口大国だったが、日本もフランスと同規模かそれに近く、イギリスを大きく上回る人口を持つ国だった。
1649年(慶安2年)
1648年(正保5年/慶安1年)
1647年(正保4年)
1646年(正保3年)
1645年(正保2年)
1644年(寛永21年/正保1年)
世界
■清朝誕生
中国を治めていた明は、財政難や農民反乱で弱体化し、北京を反乱軍に奪われて崩壊した。そこへ北方の満洲族が築いた清が進出し、1644年に北京へ入って中国支配を始める。漢民族ではない王朝が中国を治めることになり、清はその後、中国全土へ勢力を広げていく。
1643年(寛永20年)
1642年(寛永19年)
1641年(寛永18年)
1640年(寛永17年)
1639年(寛永16年)
日本
■鎖国始まる
江戸幕府は、キリスト教の広がりや海外勢力の影響を警戒し、1639年にポルトガル船の来航を禁止した。これにより貿易相手はオランダ・中国などに限られ、日本は海外との交流を大きく制限する体制に入る。いわゆる「鎖国」の始まりである。
| 国・地域 | 窓口 | 内容 |
|---|---|---|
| オランダ | 長崎・出島 | ヨーロッパで唯一、正式に貿易を許された国。医学・天文学などの西洋知識も入ってきた。 |
| 中国 | 長崎 | 中国商人との貿易が行われ、絹織物・薬・書物などが入ってきた。 |
| 朝鮮 | 対馬藩 | 対馬藩を通じて外交・貿易が行われ、朝鮮通信使も来日した。 |
| 琉球王国 | 薩摩藩 | 琉球を通じて中国との関係も保たれ、薩摩藩の管理下で交流が続いた。 |
| アイヌ・蝦夷地 | 松前藩 | 松前藩を通じて、アイヌとの交易が行われた。 |
1638年(寛永15年)
1637年(寛永14年)
日本
■島原・天草一揆
重い年貢やキリスト教弾圧に苦しんだ農民たちが、16歳の天草四郎を中心に蜂起した大規模な反乱。反乱軍は原城に立てこもったが、幕府軍に鎮圧された。この事件をきっかけに、幕府はキリスト教と海外勢力への警戒をさらに強めた。
情報島原の乱(刀剣ワールド)
1636年(寛永13年)
日本
■長崎に出島できる
江戸幕府は、キリスト教の広がりを警戒し、長崎の海上に人工島・出島を築いた。もとはポルトガル人を隔離して管理するための場所だったが、後にオランダ商館が移される。出島は、鎖国下の日本が西洋とつながる限られた窓口となった。
情報出島の歴史

世界
■ハーバード大学創立
ハーバード大学は、マサチューセッツ湾植民地で創立されたアメリカ最古の高等教育機関であり世界最高峰の私立大学。当初は聖職者を育てる学校として始まり、のちに政治・法律・医学・科学など幅広い分野で世界的な大学へ発展した。卒業生には、第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディや、Microsoft創業者ビル・ゲイツがいる。
1635年(寛永12年)
日本
■参勤交代始まる
参勤交代が制度として始まったのは、1635年であるが、それ以前にも大名が徳川への忠誠を示すために江戸に出向くため少しずつ始まっていた。大名は一年おきに江戸と領地を行き来し、妻子は江戸に住まわされたため、幕府への反抗を抑える効果があった。一方で街道や宿場町がにぎわい、人や物の移動を活発にした制度でもある。
情報参勤交代(刀剣ワールド)
1634年(寛永11年)
1633年(寛永10年)
1632年(寛永9年)
広島県
■三次藩立藩
広島藩主・浅野長晟の子である浅野長治が、三次郡・恵蘇郡など5万石を分け与えられて三次藩が成立した。広島藩の支藩として備後北部を治め、三次の町づくりや地域文化の土台を築いていった。しかし、三次藩は跡継ぎに恵まれず、1720年、わずか88年間で歴史を閉じることになる。
情報三次の歴史
1631年(寛永8年)
1630年(寛永7年)
1629年(寛永6年)
1628年(寛永5年)
1627年(寛永4年)
1626年(寛永3年)
日本
■大阪城再築
大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだ後、徳川幕府は豊臣時代の大坂城を埋め立て、その上に新たな大坂城を築き直した。徳川の城として巨大な石垣や堀を備えた西日本支配の拠点となる。現在見られる石垣の多くは、この徳川時代の再築によるもの。
情報豊臣家の城を埋めて築いた徳川家の城(史跡navi)


1625年(寛永2年)
1624年(元和10年/寛永1年)
日本
■丸岡城建造(現存12天守)
丸岡城は、1576年に柴田勝豊が築いた城を起源とし、現在の天守は寛永年間、1620年代後半頃に整えられたと考えられている。自然石を積んだ石垣や石瓦の屋根が特徴で、北陸に残る唯一の現存天守として知られる。1948年の福井地震で倒壊後、部材を再利用して修復された点も珍しい。
情報丸岡城公式HP
1623年(元和9年)
1622年(元和8年)
三原と周辺
■福山城完成
福山藩主となった水野勝成によって築かれた福山城が完成。西国の外様大名を監視する幕府の重要拠点として整備され、五層の天守や広い堀を備えた大規模な城だった。城の完成により、福山の城下町づくりも本格的に進んでいく。
情報福山城博物館公式HP


1621年(元和7年)
三原と周辺
■浅野家が三原城主となる
浅野忠吉は、広島藩主・浅野長晟を支える筆頭家老で、1621年頃に三原城主となった。3万石を与えられた三原城は、広島藩東部を押さえる重要拠点となり、以後、三原浅野家が明治まで城を守り続ける。
1620年(元和6年)
三原と周辺
■三原が三万石となる
1620年頃、三原は3万石の城地となった。3万石は、大名としては小規模ながら、家老が任される領地としてはかなり大きな規模だった。米の収穫量を基準にした数字で、単純計算では数万人を支える力を持つ領地にあたる。
■虎屋本舗創業
虎屋本舗は、福山の老舗菓子店であり、福山藩の御用菓子司となり、築城を祝う茶の湯の席に献上した「とんど饅頭」や虎模様の焼き皮であんを包んだ「虎焼」が名物。近年は、たこ焼きやお好み焼きに見える「そっくりスイーツ」も人気。
情報虎屋本舗公式HP
広島県
■縮景園の整備開始
縮景園は、広島藩主となった浅野長晟が、家老で茶人としても知られる上田宗箇に命じ、1620年から整備を始めた大名庭園。中国・杭州の西湖をまねたともいわれ、池の周りを歩きながら景色の変化を楽しめる造りが特徴。
情報縮景園公式HP
1619年(元和5年)
三原と周辺
■福山藩成立・水野勝成が藩主へ
福山藩は、福島正則の改易後、徳川家康のいとこにあたる水野勝成が備後東南部に入ったことで成立。勝成は関ヶ原や大坂の陣で活躍した武将で、幕府から信頼されていた人物。西国の外様大名をにらむ拠点として、福山城と城下町づくりを進めていく。
情報福山城博物館
広島県
■広島城の無断改修で福島氏が改易・浅野氏が入城
福島正則は、関ヶ原の戦い後に広島を治めた有力大名だったが、洪水で傷んだ広島城を幕府に無断で修理したとして改易された(武家諸法度違反)。代わって浅野長晟が広島城に入り、以後、浅野氏による広島藩支配が明治まで続くことになる。
情報広島藩(江戸の世のひりしま探訪)
■とうかさん始まる
広島藩主となった浅野長晟が圓隆寺を建立し、稲荷大明神が祀られた。「稲荷」を音読みで「とうか」と呼んだことから親しまれ、翌年には大祭が始まったとされる。現在も「浴衣の着始め祭り」として、広島に夏を告げる行事となっている。
情報とうかさん公式HP
1618年(元和4年)
世界
■三十年戦争(~1648年)
三十年戦争は、今のドイツ周辺で起きた宗教対立から始まった30年間の大戦争。最初はカトリックとプロテスタントの争いだったが、各国の権力争いも絡み、ヨーロッパ中を巻き込んだ。戦後の講和で、国同士が互いの主権を認め合う考えが強まり、近代的な国際秩序の出発点となる。
1617年(元和3年)
日本
■日光東照宮創建
徳川家康を神としてまつるため、家康の死後に日光東照宮が創建された。家康を「東照大権現」として神格化することで、徳川家の権威を全国に示す意味があった。のちに三代将軍・家光が大改修を行い、豪華な社殿群へ発展していく。
情報日光東照宮公式HP
1616年(元和2年)
1615年(慶長20年/元和1年)
日本
■大坂夏の陣
徳川家康が豊臣家を滅ぼした最後の戦いである大坂夏の陣。前年の冬の陣で和睦した後、大坂城の堀を埋められた豊臣方は守りを失い、再び徳川軍と激突した。真田信繁らが奮戦したが大坂城は落城し、豊臣秀頼・淀殿は自害。戦国の世はここで大きく終わりを迎えた。
情報大坂夏の陣(刀剣ワールド)
■武家諸法度の制定
武家諸法度は、大坂の陣で豊臣氏が滅んだ直後、徳川幕府が大名を統制するために定めた基本ルール。城の無断修理や勝手な婚姻を禁じ、大名が幕府に逆らう力を持たないようにした。徳川の平和を支える一方、大名を厳しく縛る仕組みでもあった。
情報武家諸法度(刀剣ワールド)
■一国一城令
一国一城令は、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした後、徳川幕府が大名の軍事力を抑えるために出した命令。各藩に原則一つの城だけを認め、それ以外の支城は破却させた。戦国時代の「城だらけの国」から、幕府が大名を管理する時代へ移ったことを示す政策だった。
三原城(広島藩・備後国)
広島城の支城だったが、広島藩東部を押さえる重要拠点として残った。広島藩が安芸に広島城、備後に三原城を持つ形はかなり異例だった。
伊賀上野城(津藩・伊賀国)
津藩は伊勢国と伊賀国にまたがる領地を持っていたため、伊勢の津城とは別に、伊賀国の城として存続を認められた。
松山城・宇和島城・大洲城(複数藩・伊予国)
伊予国は一つの国を複数の大名が分けて治めていたため、各藩の居城として複数の城が残った。
1614年(慶長19年)
日本
■大坂冬の陣
徳川幕府が豊臣家を追い詰めるために起こした戦い・大坂冬の陣。大坂城には真田信繁ら浪人が集まり、堅い守りで徳川軍に抵抗した。特に城の南側に築かれた出城「真田丸」は徳川方を苦しめ、戦いは決着がつかないまま和睦へ進んだ。
情報大坂冬の陣(刀剣ワールド)
1613年(慶長18年)
1612年(慶長17年)
1611年(慶長16年)
日本
■松江城建造(現存12天守)
松江城は、出雲・隠岐を治めた堀尾吉晴・忠氏親子によって築かれ、1611年に完成した。黒い板張りの外観から「千鳥城」とも呼ばれ、実戦を意識した質実剛健な造りが特徴。2015年には国宝に指定された。
情報松江城公式HP


1610年(慶長15年)
1609年(慶長14年)
日本
■薩摩藩による琉球侵攻
薩摩藩は、徳川幕府の許可を受けて琉球王国へ侵攻した。琉球は独立した王国として中国とも交流していたが、以後は表向き王国の形を残しながら、実質的に薩摩藩の支配下に置かれた。日本・中国の間で揺れる琉球の立場を象徴する出来事となる。
情報琉球侵攻(日本の旅侍)
1608年(慶長13年)
日本
■姫路城建造(現存12天守)
姫路城は、池田輝政が大改修を進め、1608年に現在につながる大天守が完成した。白く優美な姿から「白鷺城」と呼ばれる一方、複雑な門や曲がりくねった通路で敵を迷わせる実戦的な城でもある。美しさと防御性を兼ね備え、1993年には世界遺産に登録される。
情報姫路城公式HP


1607年(慶長12年)
三原と周辺
■朝鮮通信使が鞆の浦初訪問
朝鮮通信使は、江戸幕府と朝鮮王朝の友好関係を示す外交使節で、1607年に鞆の浦へ初めて立ち寄った。その後もたびたび寄港し、江戸時代を通じて計11回訪れたとされる。瀬戸内海の潮待ち港だった鞆は、通信使から「日東第一形勝」と称えられた。

1606年(慶長11年)
日本
■彦根城建造(現存12天守)
彦根城は、関ヶ原の戦い後に徳川方の重臣・井伊直政の子、井伊直継が築き始めた城である。1606年頃に天守が完成し、西国大名をにらむ琵琶湖東岸の重要拠点となった。小ぶりながら破風を重ねた華やかな天守を持ち、後の1952年に国宝にも指定された。
情報彦根城公式HP
1605年(慶長10年)
1604年(慶長9年)
1603年(慶長8年)
日本
■徳川幕府(江戸幕府)誕生
徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した後、征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。政治の中心は京都ではなく江戸へ移り、大名を統制する仕組みが整えられていく。ここから約260年続く、戦乱の少ない江戸時代が始まった。
■二条城完成
二条城は、徳川家康が京都での宿所と、朝廷や西国大名への権威を示す場として築かせ、1603年に完成した。江戸幕府を開いた家康にとって、京都に城を持つことは政治的にも重要だった。のちに大政奉還の舞台となるなど、徳川の始まりと終わりを見届けた城となる。
情報二条城公式HP
三原と周辺では、戦国の余韻が残る時代から、城下町・港町・産業の時代へ移っていった。福山藩が成立し、福山城や城下町づくりが進む一方、三原は3万石の城地として広島藩東部を支える拠点となった。鞆の浦では朝鮮通信使や保命酒、尾道では北前船、竹原では製塩や酒造りが発展し、瀬戸内の町々が個性を強めていった。
広島県では、福島氏から浅野氏へ支配が移り、江戸時代の広島藩の形が整っていった。縮景園や講学所、三次藩、御手洗、白牡丹酒造なども生まれ、政治・文化・産業の土台が築かれていった時代だった。
日本全体では、徳川幕府が戦国の世を終わらせ、全国を管理する仕組みを固めていった時代。江戸幕府の成立、大坂の陣、武家諸法度、一国一城令、参勤交代によって大名の力は抑えられ、約260年続く江戸時代の基盤がつくられた。一方で、島原・天草一揆や鎖国、出島の整備により、国内統治と海外交流のあり方も大きく定まっていった。
世界では、ヨーロッパ諸国が海を越えて勢力を広げ、近代世界の形が少しずつ見え始めていた。三十年戦争を経て国同士の主権を重んじる考えが強まり、ニュートンの万有引力の法則は科学の見方を変えた。オランダやイギリスは交易拠点を築き、ニューヨークやケープタウンの原型が生まれる。清朝、ベルサイユ宮殿、タージマハルなど、大帝国の時代でもあった。
次は群雄割拠の戦国時代をさかのぼります!
このページの年表情報等は全てインターネット検索やチャットGPTで調べた情報ですので、一部間違えている情報もあるかもしれませんので、その辺はご了承ください。
\遡る年表シリーズ一覧/
| ① | 平成編 2010→1990年代 |
| ② | 戦後の昭和編 1980年代→1946年 |
| ③ | 昭和初期・大正編 1945→1912年 |
| ④ | 明治編 1911→1868年 |
| ⑤ | 江戸時代編 1867→1603年 |
| ⑥ | 戦国時代編[予定] |
| ⑦ | 室町・鎌倉時代編[予定] |
| ⑧ | 平安・奈良時代編[予定] |
| ⑨ | 飛鳥~縄文時代編[予定] |





